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画家フェレンツ・セマンの生涯
ソ連という国が崩壊してから20年になりますから、ソ連を知らない世代がもう大人になっているのですね。
それを思うと、感慨深いです…
***************
フェレンツ・セマンは、ウクライナとチェコスロヴァキア(当時)の国境の街ウジュホロドで、1938年に生まれました。
ウジュホロドは長い間ハンガリー帝国の支配下に長くあったところで、文化的にもハンガリーの影響の強い土地柄でした。しかし第二次大戦後、この街はソ連社会主義連邦の支配下に入りました。
ハンガリー人の知識人の家庭でそだったフェレンツは、早くから絵画に才能を見せていました。
その彼の才能に注目したのは、世界的に有名な映画監督、セルゲイ・パラジャーノフでした。この天才芸術家の指導のもとで、セマンはその才能を開花させたのです。

でも、社会主義政権下の芸術は、決して自由なものではありませんでした(北朝鮮を想像していただけば、当たらずとも遠からずです)。「芸術は体制に奉仕するもの」が鉄則だったのです。
当局ににらまれながらも、1968年に彼は個展を開きましたが、たちまち閉鎖されてしまいました。
その後、絵で生活の糧を得られない彼は、夜警をしたり、人夫をしたりしながら、細々と絵を描き続けました。
両親の不遇な死のあと、彼は酒に溺れ始めます。1980年代の絵が残っていない(ような)のは、この時期のセマンの荒廃した生活ぶりを示しているのでしょう。
そんなとき、アル中患者になったセマンに救いの手を差し伸べた人がいました。彼の主治医となったユーリイ・ネベスニク氏です。絵が大好きなネベスニク医師は、セマンの才能を惜しんで、彼が絵をかけるように物心ともに支えました。そのお陰で、セマンはまた絵を懸命に描き始めたのです。

ソ連の崩壊間近な1990年に、セマンはやっとまた展覧会に絵を出展することができました。
1991年のウクライナの独立以後は、ハンガリーやウクライナの展覧会に出展、彼の作品が世間に認められるようになりました。
しかし、長年の不摂生がたたって、2004年に67才で亡くなりました。
セマンの絵の多くは、彼の生活を支えるためにその絵を買い続けたネベスニク医師の家を飾っています。

セマンの自画像の前のネベスニク夫妻
それを思うと、感慨深いです…
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フェレンツ・セマンは、ウクライナとチェコスロヴァキア(当時)の国境の街ウジュホロドで、1938年に生まれました。
ウジュホロドは長い間ハンガリー帝国の支配下に長くあったところで、文化的にもハンガリーの影響の強い土地柄でした。しかし第二次大戦後、この街はソ連社会主義連邦の支配下に入りました。
ハンガリー人の知識人の家庭でそだったフェレンツは、早くから絵画に才能を見せていました。
その彼の才能に注目したのは、世界的に有名な映画監督、セルゲイ・パラジャーノフでした。この天才芸術家の指導のもとで、セマンはその才能を開花させたのです。

でも、社会主義政権下の芸術は、決して自由なものではありませんでした(北朝鮮を想像していただけば、当たらずとも遠からずです)。「芸術は体制に奉仕するもの」が鉄則だったのです。
当局ににらまれながらも、1968年に彼は個展を開きましたが、たちまち閉鎖されてしまいました。
その後、絵で生活の糧を得られない彼は、夜警をしたり、人夫をしたりしながら、細々と絵を描き続けました。
両親の不遇な死のあと、彼は酒に溺れ始めます。1980年代の絵が残っていない(ような)のは、この時期のセマンの荒廃した生活ぶりを示しているのでしょう。
そんなとき、アル中患者になったセマンに救いの手を差し伸べた人がいました。彼の主治医となったユーリイ・ネベスニク氏です。絵が大好きなネベスニク医師は、セマンの才能を惜しんで、彼が絵をかけるように物心ともに支えました。そのお陰で、セマンはまた絵を懸命に描き始めたのです。

ソ連の崩壊間近な1990年に、セマンはやっとまた展覧会に絵を出展することができました。
1991年のウクライナの独立以後は、ハンガリーやウクライナの展覧会に出展、彼の作品が世間に認められるようになりました。
しかし、長年の不摂生がたたって、2004年に67才で亡くなりました。
セマンの絵の多くは、彼の生活を支えるためにその絵を買い続けたネベスニク医師の家を飾っています。

セマンの自画像の前のネベスニク夫妻
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